9月はじめに上陸した台風12号は、長時間にわたって紀伊半島南部にとてつもない量の雨を降らせた。そして大きな爪あとを残して、去っていった。
全国では100人近くもの死者、行方不明者があったとのこと。新宮市内でも私の友人を含め、14人が亡くなった。(行方不明1人含む)亡くなった皆さんのご冥福を祈りたいと思います。
さて、インターネットを見ると、そのときの画像があふれているので、いまさら、という気がしないでもないが、私の撮った画像も載せてみる。更新が遅くなったのは、プロバイダーとして利用しているケーブルテレビ会社のZTVが回線の障害のため、9月いっぱいまるまる利用できなかったという理由が大きい。(もちろん私の怠けぐせもあるけれど) それでいて、ZTV利用料はいつものように1カ月分、貯金から引き落とされている。(怒)
そのときの私は‥ 9月2日(金)の夕刻から、熊野川行政局の警備員として宿直勤務についた。その時にはもう警報がでていたので、行政局内は非常時のために出勤した人や、避難した人でごった返していた。
金曜深夜には国道168号が冠水。通行止めになり、土曜になっても、もちろん私の交代要員の宿直者が来るわけもなく、仕方なく、国道まで熊野川になってしまった窓の外を見ながら過ごしていた。後から考えると水の量は朝から急に増えるでもなく、減るでもなく、小康状態だった。‥暗くなるころまでは‥
暗くなって、時間がたつにつれて、2階の窓から見る自分の足元の高さに、水面の高さが近づいてくる。隣の事務所では、重要書類や、パソコンを3階に運ぶなど、ちょっとした騒ぎに。
3日深夜、熊野川と北山川のそれぞれのダムが聞いたこともないような量の放水を続けるころ、2階の床に水があふれてきて、全員3階に避難。その後、渡り廊下を通って、行政局から隣の開発センターの1番広い部屋(大研修室)に移り、避難者の人たちと一緒に災害時用の毛布にくるまって、雑魚寝。しばらく眠っていたら、職員の人に起こされた。「ここも危ない」と言われて、避難者、職員合わせて50余名が消防署員の誘導で、数人ずつボートに乗って対岸に移動。さらに山中の急な坂道を、木から木に渡したロープを頼りに歩いたりして、特に不安はなかったが、年配者もいるので、安全に移動するのにとても時間がかかった。結局、避難所として用意された熊野川小学校体育館に到着した時には、すっかり夜が明けていた。
このときのことは、今思い出しても、現実にあったこととは思えないようなできごとだった。
あくる日の午後(9月5日月曜日)避難所から10キロあまり離れた自宅に自動車でむかい、途中でがけ崩れのため通れないところがあったので、車を置いて、30分ほど歩いて家に戻ったが、自分の家が以前のまま変わりなく建っているのを確かめたときは本当にほっとした。
9月3日(土)早朝 熊野川行政局から熊野川を眺める3月にほぼ同じ場所から撮った写真です。9月4日(日)早朝 熊野川小学校付近の高台から能城(右側)和気(左側)方面を眺める同じ場所から水の引いた後に撮影